野球の思い出 ~中学生編①~

すっごい長いんで、気長に読んでください。
さて、中学に進学。まぁ地元の中学だったわけですが、そこがまぁ校風が物凄く厳しい学校で、「生徒は必ず部活動をしなければならない」というような学校でした。
なんというか、小学生気分が抜けない私はその校風についていけない・・・というか、付いて行きたくない感じだったので、適当に卓球部に席を置きました。
ただ放課後はそのまま帰ってました。今思えば不真面目だなぁって思うんですが、「部活やりたくないなぁ」っていうのが本心でした。
いきなり幽霊部員になった私に、卓球部の先生からお怒りのお言葉をもらいます。でもなんにも気にした感じもなし。正直、ここではまだ小学7年生だったんだと思います。
そんな折、三者面談の席で担任が「野球部に入りなさい」と言ってきます。実は担任が野球部の顧問だったんですね。
私、自慢じゃないけどそこそこ脚が速かったんです。当時100m12秒台前半とかでした。
それを見てた先生が「うちの野球部に欲しい」と言ってきたんですね。
親も「そうします」って納得。私も「まぁ、野球ならやってもいいかな」っていう感じでOK。
翌日卓球部に退部届を出し、野球部に入部します。
(実は陸上部からも誘いがあったのですが、「走るだけじゃなぁ・・・」という気持ちで断りました)
同級生から約1ヶ月遅れての野球部入部でございます。
いざ本格的に部活を始めるとキツイのなんの・・・
朝練は7時から、放課後は6時まで練習というキツさ。
ちなみにまだ土曜日が半日だった時代だったので、土曜日は午後めいいっぱい練習・・・
はじめのうちは練習で疲れすぎて家に帰ったらそのまま寝てました。宿題なんかできるわけがないという感じ。
さて、どこもそうだと思いますが、1年生は初めのころは試合どころか練習もさせてもらえません。
とにかく先輩方の練習の補佐と準備。試合の時はスタンドから応援。これをひたすらにやります。
準備が遅れると怒られますし、罰として走らされます。
ただ、普段はとても優しい先輩方だったので、(色んな意味で)可愛がってもらいました。
私が1年時の先輩方は物凄く強く、地区大会(厚木愛甲地区)優勝、県央大会優勝、県大会ベスト4という凄まじい成績をおさめました。
ちなみに県大会出場は学校の野球部初だそうで、しかしながらその凄さをいまいち分かってなかった私は、3年生の引退時にその凄さを知るのでした。
当時神奈川の中学校が約380校。このうち、県大会に進めるのはたったの26校。
そして更にそのベスト4に入ってしまうという(しかも準決勝で当たった学校が優勝チーム)・・・
とんでもない学校に来てしまったとその時に思うのでした。
3年生が引退すると、我々1年生も練習に参加させてもらえるようになります。
しかし季節は夏・・・ その中で、徹底的な走り込みとノック。
夏の練習はとにかく走らされた思い出しかありません。
バントの練習でバントをミスったら校庭10周とか、ノックでエラーしたら校庭10周とか・・・ 1日50周位走ったこともありました。
ただ、同級生からも次第に練習試合に名を連ねる人間も出てきました。
これが物凄くモチベーションに繋がりました。
私は前述のとおり脚があったので、数試合ですが代走での出場ということが出てきました。
出場したらとにかく1つ先の塁を目指して走る・・・という感じで1年時を過ごします。
ちなみに守備機会での出場はありませんでした・・・
ちなみにうちの学校は伝統的に「ユニフォームは先輩から受け継ぐ」というものだったので、3年生は2年生に、2年生は1年生にユニフォームを渡します。
私も仲の良い先輩からユニフォームを譲り受けました。
それまで練習用の白いユニフォームだったので、やっと学校の野球部の一員になれた気がしました。
2年になると新しく後輩ができます。
まずは後輩の指導。なぜか指導係に私を含めた3名が選ばれます。
準備の仕方だったり、応援の仕方だったり、とにかく自分たちが1年の時にやってきたことをやってもらわねばなりません。
私からは「とにかく声を出せ」ということを強く言ったことを覚えています。
春の地区大会。私は戦番号23番をもらい、ベンチに入ることができました。
春の地区大会は背番号25番までベンチに入ることができます。
しかしながら、実は3年の先輩は20人ほどいたのですが、こう言ってはなんですが実力が劣る人は先輩でも容赦なく背番号を外され、応援に回されました。
ちなみに2回戦で敗れてしまい、また私の出場機会はありませんでした。
夏の大会まで、とにかく毎日物凄い練習が続きます。
しかしこの頃には体力もつき、練習についていけるようになりました。
ちなみに私はこの時ショートの3番手+外野控えといったポジションでした。
終盤、「ここぞ」という時に代走で回ってくるというのが主な出場機会でした。
巨人の鈴木尚広選手のような感じといえばカッコイイのですが、鈴木選手のような代走としての安心感や猛烈な盗塁成功率は誇れなかったように思います。
そして夏の地区大会。相変わらず背番号は23でした。
この夏の大会は背番号20番までしかベンチ入りすることができず、私は応援に回ることになりました。
結果は優勝。地区大会2連覇でした。
「先輩強いなぁ・・・」と応援しながら思ったものです。
しかし、続く県央大会、2回戦で惜敗してしまいます。ちなみに対戦したチームはそのまま県央大会を制しました。
呆気なかったというか、「先輩がここで負けるはずがない」と思っていただけに、物凄くショックでした。
翌日、ミーティングで代替わりのユニフォームの受け渡しが行われました。
3年生はもう出られる大会がなくなり、受験に備えるということで引退になります。
私は仲の良い先輩からユニフォームを託されました。同時に、私も後輩へユニフォームを渡しました。
ただ、まだ最上級生になる実感が湧かず、かなり戸惑っていました。
私はショートの2番手になったのですが、1年生も練習に参加するようになり、本格的に外野へのコンバートを考え、先生に直訴しに行きました。
先生は「まだそんな時期ではない」ということだったのですが、一応外野の練習には参加させてもらえることになりました。
一応外野はライトが空いていたので、そこに入る形で練習していたのですが、夏の紅白戦で「サード」につくことになりました。
サード・・・今まで経験したこともありませんし、内野はショートばかりだったので全く勝手がわかりません。
飛んできたボールを捌けばいいだけかと思いきや、バントの時にはダッシュを掛けなければなりませんし、三盗阻止のために塁に入らなければなりません。
そしてここから、なぜか私はサードに固定になってしまったのです。
先輩がどんな動きをしていたかなんてサッパリ見ていません。とにかくやって慣れるしかありません。
ちなみに打順はこの時から8番でした。実は中学に入ってから打撃不振で、自分も「打つよりは守備で」という感じでした。
そんなこんなで3年生になります。
自分たちはまだ地区でどの学校も成し遂げていない「地区大会3連覇」という夢に挑むこととなりました。
ちなみにサードの守備は段々と慣れてはいったのですが、ファーストまで遠投しないといけないポジションだけに、肩の弱い私にはキツかったです。
力んで投げれば暴投、あるいはとんでもないところに行ったりとか・・・
1回表で早々ベンチに下げられたこともあったくらいです。
「イカン、これでは試合で使えない人間になってしまう」ということで、ノックをひたすら受け、走りこみを続けました。
そうこうしてるうちに春の大会がやってきます。
私は(前代未聞の)背番号5を付けることになりました。
5・・・プレッシャーが大きかったです・・・。
ちなみに、この春の大会では、私は1番サードで出場します。
脚を買われての1番だったのですが、出塁率はそんなに良くはなかったです・・・
結果は2回戦敗退。正直「地区大会3連覇なんて無理だろ」って思ってしまいました。
しかしながら、夏まではまだ時間があります。
とにかく物凄い練習量でその後を過ごし、夏の大会を迎えます。
この頃には私は「8番 サード」という位置に落ち着きました。
また学生野球では珍しいかもしれませんが、とにかく出塁主義というか、フォアボールを選ぶことを第一に考えるようになりました。
「塁に出ればかき回せる」そう思ったので、追い込まれるまではとにかく揺さぶる打撃に徹しました。
先生もそんな意図をわかってくれたようで、無理なサインは出ないようになりました(ただ脚はあったのでセーフティーバントのサインは結構多く出ました)。
続きます

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