野球の思い出 ~高校編③~

はい、野球編ラストです。
前回は夏の大会まででしたね。
夏の大会が終わった後、同級生の女子マネージャーが3人入部し、秋の大会を目指すことになります。
その間、私は打撃向上を目標に掲げまして、かなり極端なオープンスタンスにしました。
結果、ボールがよく見え、またバットのでもスムーズになり、打撃成績は格段に向上しました。
もっと早く(中学時代あたりから)こうしておけばよかったとつくづく感じました。
また、練習試合公式戦含めて4試合目でようやく勝つことができました。
その後も負けは多いものの、若干ですが勝てるようにはなりました。
ちなみに私はこの辺りでライトでの先発が増えます。
で、ピッチャーが交代して外野に入った時はセカンドかショートに移るという形に落ち着いてきました。
打順は相変わらず1番。
ただ、以前と違って打てるようになったので、出塁率は上がりました。
そんなこんなで練習試合を重ね、秋の大会を迎えます。
秋の大会は4チームによるリーグ戦を行い、上位チームがトーナメントに出るという仕組みです。
ちなみにリーグ戦は・・・全敗でした。
うち2試合がコールドゲーム・・・。
今思うに、広い球場での練習が足りなかったんじゃないかと思っています。
まぁ、でもほとんど力負けという感じでしたが・・・
さて、そして秋の大会が終わった後に学校で文化祭が行われたわけなんですが、私は店番をやりつつ、空いた時間で体育館のステージの発表を見に行ったのですが・・・
そこでは、先輩方がライヴをしていたのです。
ちなみにライブを見るのは初めてで、物凄く感動してしまいまして。
実は中学の同級生がフォークギターを弾いていたことがあって、それを見て「カッコイイ」と思って、コードを少し教えてもらってたんですね。
ただ中学ではバンド演奏なんていうのはなくて、高校の文化祭で物凄く衝撃を受けたわけです。
「あ、この学校は文化祭でライブができる学校なんだ」みたいな。
そう思ったら、なんだかそっちばかりに気が行ってしまって、1年の冬あたりで部活に行かなくなり、同時に一緒に軽音楽部を立ち上げられるメンバーを探すことになります。
まぁそれはまた別の機会に書きますが、私の野球道はそんな感じでアッサリと幕を閉じました。
もちろん顧問の先生や友人の野球部の親御さんなどから「戻って来なさい」という説得もたくさん受けましたが、私の覚悟は硬かったです。全てバッサリと断って、「俺はバンドマンになるぞ!」っていう気持ちで突っ切っていたような感じでした。
生涯成績とかは全くわかりませんが、とりあえずピッチャー以外のポジションは全て守れたし、それなりに楽しかったです。まぁ、キツイことがだいたいでしたけどw
今野球をやりたいかと言われると正直微妙ですけど、ちょっとやってみたくはありますね。
まぁ流石に昔ほどは動けないでしょうけど、昔より楽しんでやれるかなって気がします。
そんなわけで、
野球の思い出 ~完~

野球の思い出 ~高校編②~

さて、高校編続きです。
夏の大会前に背番号が配られたのですが、私は「2」でした。
初めての練習試合の後に先生が登録したんだと思いますが、まさかまた2を背負うことになるとは・・・
とはいえ、このあたりでは正捕手も決まり、私はセカンド・ショートを軸に、場合によっては外野にもいけるプレイヤーということになっていました。
ちなみに打順は1番に。相変わらず脚は速かったらしいです。
夏の大会が近づいた頃、地元の神奈川新聞で「夏の大会出場校紹介」的な感じでメンバーが紹介されるわけなんですけれども、見出しに「1年生チーム 悲願の1勝へ」みたいに書かれていました(笑)
なんというか、新聞的には「1年生チーム」っていうのが話題性があったんですかね。練習中も読売新聞の方が取材に来たことがありました。
そして、夏の大会の開会式を迎えます。
会場は横浜スタジアム。参加する(約)210校の選手が球場外に集まってます。
私たちはといえば、「おお、横浜高校だ!」とか「うわ、東海大相模だ!」とか、テレビの向こう側のスターを目の当たりにした田舎者みたいな感じになってました。というか、ある意味浮いてたと思う(笑)
ブルペンに待機して、入場の順番を待ちます。
でもここに来て「行進の掛け声を決めてない」という事態になり、急遽、当時あったエロ本の「ピザッツ」を合言葉に「ピザッツ~! ピザッツ~!」と行進していました(なぜそうなったかは今もサッパリわからない)。ちなみに全員半笑い。
高野連の皆様、及びテレビを見ていた高校野球ファンの方々、大変申し訳ありませんでした。
後でテレビの録画を見たらみんな謎の笑顔・・・というか、明らかに真剣味に欠ける笑い方をしてました。
あ、そういえばテレビでも「1年生チーム、悲願の1勝を目指します」的なことを言われてました。
なんか別の意味で注目されてたように感じます。
そして、ついに夏の大会を迎えるわけですが・・・
私は「テレビ中継」という、今までになかった謎のプレッシャーに襲われておりました。
私たちは第3試合なので午後試合開始だったのですが、母に作ってもらった昼食が全く喉を通らないほど緊張していました。
代わりに一緒にカバンに入っていた「エネルギー補給ゼリー」みたいなものを2つ胃に入れて試合前の練習をしていました。
前の試合が大分長引き、観客席で待っていると、一人の男性が我々のもとに「インタビューよろしいですか?」と訪ねてきました。
後で分かったのですが、この方はTVKの久保 弘毅アナウンサーで、我々の試合を実況するので話を聞かせていただきたいとのことでした。
「うわ、やっぱりテレビ中継されるんやん」みたいな感じで思っていたのですが、呼ばれたのはキャプテン・副キャプテン・ピッチャー・キャッチャーのみで、私は呼ばれませんでした。ちょっとショック・・・
第2試合もようやく終わり、グラウンドに足を踏み入れたらもう広いのなんの・・・
ちなみにこの時練習試合も含めて3試合目・・・ 色々と初めてで圧倒されました。
「保土ヶ谷で試合ができる」っていうのは嬉しい事なのですが、新チームになってグラウンドで練習したことはなく、「大丈夫かこれ?」っていう感じで練習をしていました。
試合前のシートノックも・・・ なんというか、広さに慣れていない外野陣が散々・・・
私も気のせいかダイアモンド間が物凄く広く感じました。
ただそんなことはよそに試合は始まります。
相手は私立高。確か横須賀の高校だったかな。
高校野球では試合前に応援団のエールの交換というのがあるのですが、相手側はチアダンスもいるし、ブラバンもものすごく豪華でした。
「これが高校野球なんだな」ってグラウンドに立って初めて実感した次第であります。
私は1番セカンドで先発出場します。
でもシートノックが終わったあたりから「テレビ中継」っていうプレッシャーはどこかに行って、そのおかげでお腹が空いて、ベンチでご飯食べてました(奇跡的にその模様はテレビでは写っていませんでした)。
我々はじゃんけんに勝って先攻で試合を進めることになりました。
さて、私は1番バッターなので、1回表にいきなり打順が回ってきます。
球筋は見えていたのですが、中学の頃からの「出塁主義」が抜けず、この時も「フォアボール狙い」でございました。
カウント2-2の5球目、インに来たボールを自信を持って見逃します。
判定は・・・ストライク。見逃し三振。
「え?」という感じでベンチに下がったのですが、あれは今考えたらストライクだと思います。
ちなみに後日、録画していたビデオを見たら、やや外れてはいるものの、ストライクでもおかしくない球でした。
実況・解説の方からは「振って欲しかったですねー」と言われておりました・・・
この試合、守備機会(セカンドゴロ)は3回あったのですが、「エラーはするまい!」という気持ちで、全て体で止めました。
でも綺麗に捌いた後で「今オレ写ってるかな?」なんて思ったりもしてました。
私の第2打席はセカンドゴロ。カウント的に追い込まれ、「三振ははするまい!」とカットにいったわけですが、無常にもコロコロとボールはセカンドへ。
カットの技術がなかったんだ・・・
5回を終わって1-2と、1点ビハインドでグラウンド整備が行われます。
その間内野陣で集まって、「この試合いけんじゃね?」みたいなことを話してました。
しかしその後6回裏だけで11失点してしまい、一気に1-13と追い込まれます。
高校野球ではコールドゲームというルールが有り、5回終了時点で10点差、7回終了時点で7点差開くとコールドゲームが成立、試合終了となってしまいます。
つまり、7回表で最低でも6点取らないといけない状況になりました。
が・・・、そんなことできるはずがなく、あっけなく三者凡退。
ゲームセットとなったわけです。
ちなみに私は第3打席、サード後方へのポテンヒットを打ったわけなんですが、なんとその頃には野球中継は終了していたそうです(泣)
また、球場に応援に来ていた母のもとに、テレビ観戦していた親戚などから「放送終わったんだけど、そっちどうなってる?」といった電話がひっきりなしにかかってきたらしく、母は電話口でずっと実況していたそうです。
ともあれ、高校野球の夏の大会に出られたというのは今でもいい思い出になっています。色んな意味で。
1年生チームということでそこそこに話題にもなりましたし、しかも試合がテレビ中継されたりと、なんだか物凄いことになってましたが、本当にいい思い出です。
そして、我々を支えてくれた先輩マネージャーさんはここで引退となりました。
最後の大会、勝たせてあげたかったですが、コールドゲームという切ない結果に終わってしまったのがとても悔やまれました。
その先輩は試合後に読売新聞の取材を受け、翌日写真付きで記事になったのですが、アーカイブとかあったら欲しいです。問い合わせたらいいのかな?
次回「野球の思い出」はラストです。

野球の思い出 ~高校編①~

ということで、続いてまいりました「野球の思い出」。ラスト高校編です。
いやまぁ、その前にですね、色々とカッコイイことを話させていただきますと、中学時代に県大会に出場したので、県内のそこそこの野球実力校数校からスカウトが来てました。
「野球やるなら推薦で入ってくれていいですよ」的な感じですね。
で、進路について三者面談がありました。
あ、中学編で書き忘れましたが、3年時の担任は野球部の顧問の先生でした。
その席で・・・
担任「Tomoki、高校では野球はやるのか?やるなら推薦出すぞ」
ということで。
私はもうこの時はきっぱり決めていました。
「高校では野球をやりません!」
そう担任に告げ、高校に進学します。
なんかもう、野球は中学でやりきった感があったんですね。
凄く良いチームでしたし、感無量っていう感じで。
じゃあなぜ「野球の思い出 ~高校編~」とか書いてるかってことになるんですけどね。
実は進学した学校は部活動は自由参加で、勿論帰宅部もOKという感じでございました。
ただ、同じ中学から野球をやりに同じ高校へ進学した仲間が数名いました。
そいつら曰く「この高校には野球部はあるけど、人数がいなくてほぼ休部状態らしい。みんなで押しかけて、1年からレギュラーになろうぜ」ということで。
そこでは全く心を動かされなかったんですが、高校に入学して数日後に開かれた部活説明会の時に、3年生の女子マネージャーさんが1人、マイクを持って「今、野球部には私しかいないんです。皆さん野球部に入ってください」って言ったのです。
聞いてた話と違います。休部状態っていうよりもう同好会みたいな、というか部として成り立ってるのかどうかもわからない状態でした。
「これ、アカンな・・・」という感じで思ってしまったわけです。
そんなわけで、野球をやらないつもりで進学しましたが、結局野球をやることになりました。
幸いなことに、私を含めて1年生が19人入部届を出しました。なんとか、人数は(形の上では)確保できたことになります。
ただまぁ、なんか上から目線になってしまって申し訳ないんですが、中学の頃の練習や活気に比べてヌルいのなんの。
同じ中学から進んだ奴がどれだけ頼もしく見えたか。
数人、高校から野球を始めたっていう人間もいましたし、他の学校から来た奴もそんなにうまくない・・・。
「大丈夫なん?これ・・・」という感じで。
しかしながら、入ったからには全力で。
1年生だけで19人ですが、どこかしらのレギュラーを取りに行かないといけないわけですからね。しかも4月に入学して夏には甲子園の予選となる県大会が待ってるわけで、かなり急ピッチで練習していきました。
しかし軟球から硬球に変わるというのは、物凄く大きなことでした。
今までの投げ方や持ち方では到底投げられませんでした。
堅いし痛いし・・・「硬球やべぇ・・・」みたいな感じではありました。
ちなみに初めての練習試合、私はキャッチャーで先発するんですが、小学生編の時みたいにパスボールばかり。
いや、硬球怖い・・・。防具つけてても痛いし。
そんなわけで、その次の練習試合ではセカンド・ショート・外野など、幅広く守る奴っていう感じになりました。
で、その間に夏の大会の組み合わせ抽選があったわけなんです。
クジを引きに行ったキャプテン(もちろん1年生)が、帰ってきてから「ヤバイ、ヤバイ・・・」と繰り返してました。
初戦の試合会場が、保土ヶ谷球場だったんです。
神奈川の高校野球ファンの方ならもうこの時点でお察しのことと思いますが、簡潔に説明させていただくと、「TVK(テレビ神奈川)のテレビ中継が行われる試合会場」を引き当ててしまったということでございます。
ちなみにこの頃、神奈川の高校野球は12会場くらいで行われていたのですが、テレビ中継されるのは保土ヶ谷球場の試合(勝ち進んで横浜スタジアムの試合のみになるとそちらの中継になります)。
まさか12分の1を引き当てるといううちの主将の引きにドン引きした瞬間でした。
初めての夏の大会で、1年生チームで、保土ヶ谷球場(テレビ中継)・・・
えらいことになったなと感じた次第です。
そんなわけで続きます。

野球の思い出 ~中学生編②~

さて、前回の続きです。
練習を重ねて、最後の夏、夏の地区大会になりました。
私は「地区大会3連覇」というのは一旦忘れて、一戦一戦全力でやっていこうと決めました。
(ちなみに校風でも強制されたわけでもなんでもなく、自然と全員が頭を刈るようになりました)
地区大会は順調に勝ち上がっていったのですが、準決勝厚木中学戦。ここが関門となりました。
相手は私が1年時に野球部の顧問だった先生が赴任して、相手方の顧問になっています。
勝負は7回が終わって3-3の同点で延長へ(中学野球は7回まででした)
この試合、うちはエースでなく後輩が先発していたのですが、9回に捕まり、一挙5得点を挙げられてしまい、その裏何もできず我々は敗戦。
結果8-3というスコアで敗れました。
私は地区大会3連覇が叶わなかったという気持ちよりも、号泣している先発の後輩をなだめていました。
後輩はただただ「すいません」というばかりでしたが、個人的にはよく投げ切ってくれたという思いでいっぱいでした。逆に、我々先輩勢が何もしてやれず申し訳ないと、そんな気持ちでした。
その後3位決定戦で勝利して、そのまま県央大会を迎えます。
県央大会はやはりレベルが高くなるというか、そう簡単には勝たせてくれないっていう試合が多かったです。
それでもなんとか準決勝まで駒を進めます。
ここを勝てば、2年前に先輩たちも行った「県大会」に出場できるわけなんですが・・・ 敗れてしまいました・・・。
しかもなんというか私のミスで・・・
最終回2点ビハインド、打席は私。
ワンアウトランナー1,2塁。出されたサインはヒットエンドラン。そこで痛恨の空振り・・・そして走っていたランナーがアウト・・・
最悪の展開になってしまいました。
結局最後のバッターになってしまい、このあと行われる3位決定戦に回ることに。
数時間後、3位決定戦。
ここで勝てば、3位で県大会に進めます。負けたらもう(正規ルートの)道はなくなります。
この試合では、準決勝と打って変わって私調子が良かったです。
最終的に8点取ったんですが、そのうちの2打点は私でした。
最終的に追い上げられて8-7っていうルーズベルトゲームになったわけですが、何とか逃げ切っての3位。
Tomoki、県大会へ行きます!
県大会までは10日ばかりあったわけですが、その間は毎日練習でした。
誰が決めたわけでもなく、朝いつも通りに集まり、また顧問の先生も毎日来て、ひたすらに練習に明け暮れました。
宿題なんてできるわけがない・・・
そんなこんなで県大会。
場所は相模原の横山公園野球場。
相手は横浜の学校でした(どこかは忘れてしまいました)。
シートノックで思ったのが、とにかく土が硬いこと。
バウンドがとにかく跳ねるんです。叩きつけたらバウンドしたボールが頭を越すくらいに。
個人的には「やりにくいなー」といった感じで試合を迎えます。
この試合、凄く締まったゲームになりました。
ロースコアで終盤まで。
しかしながら、こちらのエラーで2点ビハインドで最終回を迎えます。
1人倒れ、2人目が倒れ、・・・そして回ってきたバッターが私・・・。
内心「代打出してくれないかな・・・」みたいな気持ちでいました。
結果はショートゴロ・・・。そしてゲームセット。
私たちは県大会1回戦で敗れました。
試合後はもう、泣いてる仲間ばかりで、なんとも言えない気持ちでございました。
私はなんというか、「全力出しきった」みたいな感じが強くて、そりゃあ悔しいですけど、満足感が強かったです。
ともかくこれで、自分たちの(正規の)試合はなくなりました。
と、だいたいならここで3年生は引退になるんですが、私たちは実は春先、「関東少年野球大会」なる大会に町代表として内定しておりまして、こちらの大会に備えることになりました。
この大会は一般的な学校も出るのですが、クラブチームなども参加する大会でございます。ただ、ルールなどは全く同じ。
地区大会からの流れが「正規」の流れだとすると、こちらは「アナザー」みたいな、そんな感じですかね。
この大会では正規ルートが終わったこともあり、今まで出番がなかった同級生や後輩たちが先発したりといった感じで大会に臨むことになりました。
しかしながら私は相変わらず背番号5、打順は1つ繰り上がって7番で毎試合スタメン起用でございました。
個人的には「休みたいなー」みたいな感じではありましたが・・・。
とは言いつつも順調に勝ち進んでいきます。まぁチーム力は高かったですし。
私もこの辺りでやっと、本当にやっとバッティングがうまくいくようになり、チームもいい形で勝ち進んでいったわけでございます。
そして準決勝。
なんというか、個人的に事件でした。
結論から言うと、この試合で私だけで3エラーします。
なんでもないゴロも捌けないし、なにやってもうまくいかない状態。
3回あたりで替えられましたが、何がどうなってるのかサッパリわかりませんでした。
今で言う「イップス」とかだったのかな?とにかくそんな状態でした。
試合は敗れます。3位決定戦はなかったので、同順3位的な形でカップと賞状をいただいて終了。
ここで、私の代の大会は全て終了。引退となりました。
とにかく長かった中学時代でございますが、最後の夏の、さらに最後のあたりまでプレー出来たのは今でも自信になっています。
しかしながら、2学期の放課後から部活せずに帰るのはなんだか寂しかったですね(最初は卓球部の幽霊部員だったくせに)。
その後も後輩の指導をしたり、練習試合で審判をしたりと、野球部とはそれなりに関わりがあったのですが、基本的には全て後輩に託すという形になり、私たちは受験に向けて動き出すという形になりました。
そんなこんなで中学編終了。長々どうもありがとうございました。

野球の思い出 ~中学生編①~

すっごい長いんで、気長に読んでください。
さて、中学に進学。まぁ地元の中学だったわけですが、そこがまぁ校風が物凄く厳しい学校で、「生徒は必ず部活動をしなければならない」というような学校でした。
なんというか、小学生気分が抜けない私はその校風についていけない・・・というか、付いて行きたくない感じだったので、適当に卓球部に席を置きました。
ただ放課後はそのまま帰ってました。今思えば不真面目だなぁって思うんですが、「部活やりたくないなぁ」っていうのが本心でした。
いきなり幽霊部員になった私に、卓球部の先生からお怒りのお言葉をもらいます。でもなんにも気にした感じもなし。正直、ここではまだ小学7年生だったんだと思います。
そんな折、三者面談の席で担任が「野球部に入りなさい」と言ってきます。実は担任が野球部の顧問だったんですね。
私、自慢じゃないけどそこそこ脚が速かったんです。当時100m12秒台前半とかでした。
それを見てた先生が「うちの野球部に欲しい」と言ってきたんですね。
親も「そうします」って納得。私も「まぁ、野球ならやってもいいかな」っていう感じでOK。
翌日卓球部に退部届を出し、野球部に入部します。
(実は陸上部からも誘いがあったのですが、「走るだけじゃなぁ・・・」という気持ちで断りました)
同級生から約1ヶ月遅れての野球部入部でございます。
いざ本格的に部活を始めるとキツイのなんの・・・
朝練は7時から、放課後は6時まで練習というキツさ。
ちなみにまだ土曜日が半日だった時代だったので、土曜日は午後めいいっぱい練習・・・
はじめのうちは練習で疲れすぎて家に帰ったらそのまま寝てました。宿題なんかできるわけがないという感じ。
さて、どこもそうだと思いますが、1年生は初めのころは試合どころか練習もさせてもらえません。
とにかく先輩方の練習の補佐と準備。試合の時はスタンドから応援。これをひたすらにやります。
準備が遅れると怒られますし、罰として走らされます。
ただ、普段はとても優しい先輩方だったので、(色んな意味で)可愛がってもらいました。
私が1年時の先輩方は物凄く強く、地区大会(厚木愛甲地区)優勝、県央大会優勝、県大会ベスト4という凄まじい成績をおさめました。
ちなみに県大会出場は学校の野球部初だそうで、しかしながらその凄さをいまいち分かってなかった私は、3年生の引退時にその凄さを知るのでした。
当時神奈川の中学校が約380校。このうち、県大会に進めるのはたったの26校。
そして更にそのベスト4に入ってしまうという(しかも準決勝で当たった学校が優勝チーム)・・・
とんでもない学校に来てしまったとその時に思うのでした。
3年生が引退すると、我々1年生も練習に参加させてもらえるようになります。
しかし季節は夏・・・ その中で、徹底的な走り込みとノック。
夏の練習はとにかく走らされた思い出しかありません。
バントの練習でバントをミスったら校庭10周とか、ノックでエラーしたら校庭10周とか・・・ 1日50周位走ったこともありました。
ただ、同級生からも次第に練習試合に名を連ねる人間も出てきました。
これが物凄くモチベーションに繋がりました。
私は前述のとおり脚があったので、数試合ですが代走での出場ということが出てきました。
出場したらとにかく1つ先の塁を目指して走る・・・という感じで1年時を過ごします。
ちなみに守備機会での出場はありませんでした・・・
ちなみにうちの学校は伝統的に「ユニフォームは先輩から受け継ぐ」というものだったので、3年生は2年生に、2年生は1年生にユニフォームを渡します。
私も仲の良い先輩からユニフォームを譲り受けました。
それまで練習用の白いユニフォームだったので、やっと学校の野球部の一員になれた気がしました。
2年になると新しく後輩ができます。
まずは後輩の指導。なぜか指導係に私を含めた3名が選ばれます。
準備の仕方だったり、応援の仕方だったり、とにかく自分たちが1年の時にやってきたことをやってもらわねばなりません。
私からは「とにかく声を出せ」ということを強く言ったことを覚えています。
春の地区大会。私は戦番号23番をもらい、ベンチに入ることができました。
春の地区大会は背番号25番までベンチに入ることができます。
しかしながら、実は3年の先輩は20人ほどいたのですが、こう言ってはなんですが実力が劣る人は先輩でも容赦なく背番号を外され、応援に回されました。
ちなみに2回戦で敗れてしまい、また私の出場機会はありませんでした。
夏の大会まで、とにかく毎日物凄い練習が続きます。
しかしこの頃には体力もつき、練習についていけるようになりました。
ちなみに私はこの時ショートの3番手+外野控えといったポジションでした。
終盤、「ここぞ」という時に代走で回ってくるというのが主な出場機会でした。
巨人の鈴木尚広選手のような感じといえばカッコイイのですが、鈴木選手のような代走としての安心感や猛烈な盗塁成功率は誇れなかったように思います。
そして夏の地区大会。相変わらず背番号は23でした。
この夏の大会は背番号20番までしかベンチ入りすることができず、私は応援に回ることになりました。
結果は優勝。地区大会2連覇でした。
「先輩強いなぁ・・・」と応援しながら思ったものです。
しかし、続く県央大会、2回戦で惜敗してしまいます。ちなみに対戦したチームはそのまま県央大会を制しました。
呆気なかったというか、「先輩がここで負けるはずがない」と思っていただけに、物凄くショックでした。
翌日、ミーティングで代替わりのユニフォームの受け渡しが行われました。
3年生はもう出られる大会がなくなり、受験に備えるということで引退になります。
私は仲の良い先輩からユニフォームを託されました。同時に、私も後輩へユニフォームを渡しました。
ただ、まだ最上級生になる実感が湧かず、かなり戸惑っていました。
私はショートの2番手になったのですが、1年生も練習に参加するようになり、本格的に外野へのコンバートを考え、先生に直訴しに行きました。
先生は「まだそんな時期ではない」ということだったのですが、一応外野の練習には参加させてもらえることになりました。
一応外野はライトが空いていたので、そこに入る形で練習していたのですが、夏の紅白戦で「サード」につくことになりました。
サード・・・今まで経験したこともありませんし、内野はショートばかりだったので全く勝手がわかりません。
飛んできたボールを捌けばいいだけかと思いきや、バントの時にはダッシュを掛けなければなりませんし、三盗阻止のために塁に入らなければなりません。
そしてここから、なぜか私はサードに固定になってしまったのです。
先輩がどんな動きをしていたかなんてサッパリ見ていません。とにかくやって慣れるしかありません。
ちなみに打順はこの時から8番でした。実は中学に入ってから打撃不振で、自分も「打つよりは守備で」という感じでした。
そんなこんなで3年生になります。
自分たちはまだ地区でどの学校も成し遂げていない「地区大会3連覇」という夢に挑むこととなりました。
ちなみにサードの守備は段々と慣れてはいったのですが、ファーストまで遠投しないといけないポジションだけに、肩の弱い私にはキツかったです。
力んで投げれば暴投、あるいはとんでもないところに行ったりとか・・・
1回表で早々ベンチに下げられたこともあったくらいです。
「イカン、これでは試合で使えない人間になってしまう」ということで、ノックをひたすら受け、走りこみを続けました。
そうこうしてるうちに春の大会がやってきます。
私は(前代未聞の)背番号5を付けることになりました。
5・・・プレッシャーが大きかったです・・・。
ちなみに、この春の大会では、私は1番サードで出場します。
脚を買われての1番だったのですが、出塁率はそんなに良くはなかったです・・・
結果は2回戦敗退。正直「地区大会3連覇なんて無理だろ」って思ってしまいました。
しかしながら、夏まではまだ時間があります。
とにかく物凄い練習量でその後を過ごし、夏の大会を迎えます。
この頃には私は「8番 サード」という位置に落ち着きました。
また学生野球では珍しいかもしれませんが、とにかく出塁主義というか、フォアボールを選ぶことを第一に考えるようになりました。
「塁に出ればかき回せる」そう思ったので、追い込まれるまではとにかく揺さぶる打撃に徹しました。
先生もそんな意図をわかってくれたようで、無理なサインは出ないようになりました(ただ脚はあったのでセーフティーバントのサインは結構多く出ました)。
続きます

野球の思い出 ~小学生編~

高校野球を観戦したついでに、私の野球人生をここに書いてみたいと思います。
野球を始めたのは小学校3年の時(確か秋ごろ)。友人のお父上が地区チームのコーチをやっていて、友人とそのお父さんに誘われる形で野球を始めました。
最初はルールなんてわかりません。ボールはどうやって投げたらいいのか?ボールを取ったけれどどこに投げたらいいのか?バットはどうやって握るのか?等など、それまで野球をあまり見てこなかった人間だったので、何から何まで初めてづくしで戸惑った覚えがあります。
ちなみにこの時は背番号15でした。20人弱のチームだったので、大分後ろの方でございます。
4年生になって初めて試合に出ます。初めての試合は6番センターとかだったかな。
背番号は11番を付けさせてもらいました。(ちなみに今はどうかわからないんですが、当時は主将が10番を付けるという決まり(?)がありました)。
この時は物凄く緊張していて、「ボール飛んで来るな」ってず~っと思ってました(結果飛んできませんでした)。
打撃の方はサッパリダメ。なんというか、ボールが見えてなかったんですね。
なのでコーチから「振るな、立ってろ」と言われましたw
レギュラーということでもなかったので、ベンチで応援をしている方が多かったです。
ちなみにチームは物凄く弱く、リーグ戦全敗、練習試合全敗という完全敗北を喫します。
確か33-0という試合がありました。
5年生に上がると、守備が外野からキャッチャーに転向になりました。
とはいえ、私は肩がいいわけでもなく、リードも決して上手いとはいえないタイプでした。
盗塁されれば投げてもほぼセーフ。小学校時代、キャッチャーで捕殺できたのは確か2回しかなかったと思います。
背番号は正捕手の2。ここで初めて一桁の番号をもらいます。
打順は3番か5番でした。4年次の途中から段々とボールが見えるようになり、初めて打ったヒットは(振り遅れの)右中間3ベース。打った自分が一番驚きました。
この年はリーグ戦では全敗でしたが、練習試合では1勝することができました。初めての勝利です。
6年に上がると、なぜか副キャプテンに指名されます。
守備はそのままキャッチャーでしたが、打順はリーグ戦一戦目で3塁打を2つ打つなどしたため、次の試合から4番に。
なので、6年時は4番 キャッチャー Tomoki
でございました。
打撃は物凄く好調。打てば飛ぶし、バッティングが凄く好きになっていました。
ただ守備はイマイチ・・・ ハーフバウンドが全然取れなくて、その度に進塁、酷い時はホームインを許していました。
キャッチャーの基本である「体で止める」っていうのが怖かったんですよね。防具つけてても、柔らかい軟球でも、怖いんだよ・・・。
それでもリーグ戦2勝を挙げます。練習試合でも2勝することができました。
そして、チームMVPに選ばれます。結構いい気になってたなぁと思います。
小学校を卒業して、中学編に続きます。